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「不登校とそのケア」を考える①

C-1.「不登校とそのケア」を考える①

ご質問&インデックス

  • Q
    「不登校とそのケア」について考える際、大切な視点を教えてください。

応答(室長からのメッセージ)

Q. 「不登校とそのケア」について考える際、大切な視点を教えてください。
登校しぶりの始まり<架空の例>

 ある日を境にして、中学1年生の息子の登校しぶりが始まったとの仮定のお話からします。朝になると腹痛が生じ、辛そうです。近医の内科を受診するも、原因ははっきりせず、なかなかよくなりません。両親もそのような息子の姿に胸を強く締めつけられます。そして、朝になると、両親は、何とか息子を学校に行かそうとやや強引に登校を促すようになります。「行きなさい」「嫌だ……」「勉強も遅れて、皆に置いていかれるよ」「うるさい!」「男なんだから、しっかりしなさい!」「お腹が痛い……」など、毎朝が言い争いの連続です。いつしか、朝が来ることそのものが、本人も両親も辛くなっていきました……。

「からだとしての自分」から「こころとしての自分」へのメッセージ

 さて、このご家族の“家族間コミュニケーション”から、「不登校とそのケア」の大切な視点を考えてみましょう。一つは、「からだ(身体的存在)」としての視点です。「腹痛」は誰もが経験したことのあるとても辛い体の変容で、耐えることそのものがとても困難です。とても辛い症状である「痛み」の特徴は、他者(ここでは両親など)には見えないことです。他者は、苦悶さが滲む表情などから、その痛みの程度を想像するしかありません。この際、他者側にゆとりがあれば良いのですが、今回のような不測の事態が続いているような場合、そこに込められているメッセージ(意味)などを理解しようとする余裕はありません。逆に、強い緊張や葛藤こそ“家族間”に生じ互いを縛るようになりがちです。

 ここで、「不登校について考える」のページで紹介した「不登校傾向にある子どもの実態調査結果」の『身体的症状の理由』にあった「学校に行こうとすると、体調が悪くなる(52.9%)」を一例に加えます。ここにある「体調が悪くなる」という本人なりの意味づけは、『からだとしての自分の変化(なにかまだはっきりしない意味を含んだ、漠然としたからだとしての自分の感じの変化)』を『“こころ”としての自分』がキャッチ(認知)しなされたわけです。すなわち、「からだとしての自分から、こころとしての自分へのメッセージ」としての理解がとても大切になるのです。この「からだ」から「こころ」へのメッセージとしてキャッチ(認知)されない場合、「体調が悪くなる」との言葉にすること自体がそもそも困難となります。その場合、「自分でもよくわからない」との実感を言葉にすることが精一杯(精一杯の自分自身の守り方)となるでしょう(そもそも言葉にできない領域も“こころ”にはあるということには留意が必要です。「沈黙しなければならない」、「語りえぬものの領域がある」とも換言できます)。

 以上のことから、先の中学1年生は、「腹痛」という辛い現象(出来事)をとおし、「からだ(身体的存在)」と「こころ(精神的存在)」との間のメッセージ(“送り手”と“受け手”があり成立する)が為されていると理解できます。その上で、そのメッセージの意味を読み取る(解釈)ことが大切になります(この解釈は、ご相談者とカウンセラーの、カウンセリングとソーシャルサポートの協働の目標の一つになります)。別言しますと、「からだ(身体的存在)」と「こころ(精神的存在)」の視点からの理解を、まず大切にしなければならないのです。

発達を始めとする多角的な視点を加味すること ープレ(移行への橋渡しの時期)思春期・青年期から思春期・青年期への幾つもの課題との折り合い―

 またここに、発達の視点が加味されると、「自分自身の内面を語れるようになるのは小学校の高学年にならなければそもそも難しい」との見方が加わり、「体調が悪くなる」との意味づけの理解と解釈の幅はより広がります。さらに、男の子の場合、中学生年齢の頃は「緘黙の傾向(話せるけど話さない)」が一時的に強くなることが間々あるなどの臨床実践の知見が加われば尚更です。また、「からだの特性」として、発達障害[自閉スペクトラム症、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害、チック症、吃音など]や他の精神疾患や身体疾患などが疑われる場合もあることを加味すると……。こうした「からだの特性」は、走る・歩く・座るなどの粗大な運動と姿勢や、手先の器用さ・目の動き・口の動きなどの微細な動き、自転車に乗ることや縄跳びなどの応用的な運動、音への敏感さや触覚過敏・偏食など感覚の処理能力、物事をどう認識して処理するかなどの知覚・認知能力、心理社会的発達課題との折り合いやコミュニケーション能力に垣間見ることができたりもします。が、ご家族だけでは、そのことに気づきにくい側面も併せ持っているのです。理由は、家族間のコミュニケーションは、家族成員個々からの多少の凸凹なメッセージも、適応の名の下そこに吸収され易く、かつ、パターン化し習慣化されるためです(そのことから、家族の関係・関係性は、容易に変化し難いのです)。そして、小学校高学年以降(プレ思春期・青年期)の第二次性徴の始まりは、個々人の個性や特性をより際立たせ始めるとともに、一人ひとりに自己像の修正を迫ります(例えば、初潮の始まりや体が丸みを持つようになる、声変わりし体毛も濃くなるなどの「からだの変化」を、「“こころ”としての自分がキャッチするとともに、そのキャッチした新たな自己像を、慣れ親しんできた自己像と重ね修正し育みつつ受容していく」)。そうした変化は、“自意識”を非常に高める時期にもなります(例えば、鏡に映った自身を何度も確認しつつ髪を整えたり、反対に、鏡を見ることを極端に避けるなど)。同時に、小学校高学年で芽生えてきた「自我理想(こうなりたい、こうありたい自分)」の書き換えが16歳頃に起こるのです(夢のあきらめ、より現実的な書き換え=この辺りで、“罪悪感”や“恥”などが、情緒的なテーマとなることも多いのです。例えば、小学校高学年で七夕飾りに綴った「サッカーの日本代表になる」との夢を、高校の最終学年で「日本代表は現実として無理だ。けれど、美味しい料理を沢山作って皆を幸せな気持ちにしたい。だから、シェフになる」などと書き換えるのです。その背後に、罪悪感や恥など、さまざまな複合感情を垣間見ることがあります)。このように、プレ(移行への橋渡しの時期)思春期・青年期から思春期・青年期は、もう一つの大きなテーマである「自分自身になっていく(自律&自立する)」すなわち「(子ども側から見た)親離れー(親側から見た)子離れ・子放し」に伴うさまざまな葛藤や悲哀など、複合的な感情を味わいつつ育む発達の課題(テーマ)と一人ひとりが直面化せざるを得ない時期でもあるのです(「親子関係を考える」のページをご覧ください)。

他者や社会との関係(関わり)・関係性(関わりの傾向)[社会的存在]としての視点 ―不文律の掟との折り合い―

 そのように、プレ(移行への橋渡しの時期)思春期・青年期から思春期・青年期は、その時期を生きる一人ひとりに、『自分自身になっていく(自律&自立する)』ために渡るべきテーマ(課題)が、手を変え品を変え提示され続けるのです。そこに付随するように、「45分椅子に座って居られる集中力がなければならない」「45分座っていられないのは、その座っていられない本人に問題がある」「泣いてはいけない。泣くのは弱虫だ」「自分のことは何でも自分で出来るようならなければならない。自分で出来ないのは、自己責任だ」「人を頼ってはいけない」「年長者の言うことは聞かなければならない。反抗してはいけない」「男(の子)は耐えなければならない」「女(の子)はおしとやかでなければならない」「性別(差)は二つに区分するものだ」「弱音を吐いてはいけない」「休むことは良くないことだ」など、家族を始めとする他者や社会との関係・関係性の中を生きるための“不文律の掟(暗黙のルール、呪縛、規範化)”が<巧妙に、不可解で、強力に>一人ひとりを縛り身体化されて(体に染みついて)いきます。

世間様と同調圧力による支配と抑圧 ―こころ(自我)との折り合いー

 この「身体化された縛り」の正体こそ「権力の行使の結果」です。「権力」を辞書で引くと、「他人を強制し服従させる力」などと記されています。ここで大切なのは、誰かが糸を引くような特定の誰かの専有物ではなく、社会的な関係の中に存在する「一定方向に人類(集団)を導こうとする強い力を“権力”と呼ぶ」と整理することです。人間社会が近代化する中で、最大の脅威であった自然をコントロールしようとしてきた結果生まれたものがこの「権力」という精神力動(心の営みが生み出す力と力が織りなしていく動きのこと)です。この権力こそ、人間社会に秩序を与えて安定させ、自然の脅威から人々を守り、人類の発展を支えてきたとの肯定的な面がとても大きいのです。

 そして、この近代社会の権力の特徴は、上から下へ外部から人間に作用しているように見えて、実は下から上へつまり人間の内面から生じている(下が上に従おうとする力の方が大きい)ということにあります。このことは、外出するときは自ら身なりを整え、何の疑いもなく自ら学校へ通い、組織の中では上司や先輩の指示を自ら守って順応し、自分のことは自分で出来るように励み自己責任をも受け入れるなどの例に垣間見ることが出来ます。

 そうした権力は、「世間様」や「同調圧力」などと呼び名を変え、私たちの生活により根を張るようにもなりました。そのことは、「世間様や同調圧力(少数意見側に対し多数意見側が“長いものには巻かれろ”と暗黙裡に強要すること)という言葉や眼差しによる支配と抑圧」に、今、私たちは抵抗することが極めて困難になっていると換言することも出来ましょう。

個人化と能力主義 ―「“わたし”は、唯一無二の“わたし”である」との尊厳に気づき育む生き方へー

 「世間様」と「同調圧力」は、その力を強めながら、『個人化』と『能力主義』を前提とする社会構造(システム)を組み立て後押しし、そこへ個人を絡み取らせるようになりました。「個人化」とは「個人で生き延びろ」との権力の行使であり、「能力主義」とは「個人の努力や能力によって乗り越えよ」との権力の行使です。こうした権力の行使は、私たちの心理に深い影響を及ぼしました。それは、「他者(社会)に依存しない自立・自律した個人」となること、と同時に、「他者(社会)にとって都合の良い個人」になることです。この二つの「社会(他者)からの強迫的な要請」が、一人ひとりの自我(こころ)に巧妙に取り込まれ、自己と他者(社会)との対人関係・人間関係に緊張・葛藤を強いるようになります。そして、この二つの強迫的な要請を土台とし構成される関係・関係性の中を生き延びるために,私たちの心理は新たな適応と防衛の術を身につけます。その術の代表の一つは、「共依存(共依存的関係)」すなわち「他者(社会)の願望・期待を読み取り、それに合致するように生きようと常に努力し続けること」です。二つには、精神分析家ウィニコットのいう「本当の自己」の否認と「偽りの自己」の肥大化です。この術は、活き活きとした内なる欲求の否認とそれに基づいた自己表現の回避であり、代わって「偽り」たる他者や社会の物差し(評価)に適う自己を膨らませていくことと言い換えることもできましょう。何れにしても、家族を始めとする他者や社会との関係・関係性の間を「生き延びるために、適応しようとするがために、守ろうとするために」身に付ける生き方(術)との理解の視点がとても大切です。

 身に付けた生き方(術)に違和感を極端に感じ覚えず適応できるのであれば問題は生じにくいでしょう。しかし、違和感に“こころ(自我)”が押しつぶされ立ちすくみ、自身の限界に晒されている状態に追いやられている人(子ども)たちにとっては、まさに後がないとの極限の困難となります。

 この後がない極限の困難な状態にまず必要なことは、まず、安全な感覚を体感しつつ経験として重ねることです。 そして、その先に、適切なサポートの中、唯一無二の“わたし”への育み(「“わたし”は“わたし”でいい」との自己親密な感覚の育み)が開き始めるように考えています。

大切な視点

 普段のやり方や対応ではどうにもならない問題に直面化した時、誰しもが、原因を「これだ」と決めがちになります。それは、自分自身の“こころ”の破綻を防ぐためです(その意味では、とても健全な“こころの働き”です)。たしかに、いじめや両親間の軋轢など、特定の他者との関係・関係性から生じている問題である場合、そうした決め方とその解決の手立てには一定の効果があります(いじめや両親間の軋轢の問題をまず解決することが具体的な選択肢となるなど)。

 しかし、多くの問題の場合、その原因は複合的で、同定しにくいということにこそ特徴があります。「不登校」という現象(出来事)も、まさに同様です。そのため、そのケアを考える際、ここまで綴ってきた複眼的な視点が欠かせなくなります。従って、背景因子としての「個人の要因(発達、性格や特性、学校での学習の状況、価値観など)」と「環境の要因(家族・他者・社会との関係・関係性、学校や社会的サービスなど仕組みとの関係など)」との相互作用の視点を常に踏まえた上で、個々の要因を理解する視点を絡めることがより大切になります。なお、ここで注意しなければならないのは、「理解の視点」がレッテル貼りになってしまうことです(例えば、「発達障害だから…」「敏感だから…」と常に修飾したラベルで囲ってしまうなど)。レッテル貼りは、前述した権力の行使の結果と極めて親和性が高く、その当事者を、当事者の可能性を、奪ってしまうことが間々あるためです(ただし、本人がその修飾を選択し自身のことを整理し表現する場合などは、別の視点からの理解が必要です)。

 繰り返しとなりますが、そうした理解の視点を土台とし、唯一無二の“わたし”への育み(「“わたし”は“わたし”でいい」との自己親密な感覚の育み)の開き始めとその体験を、経験として重ねていくサポートをすることが肝要だと考えています。

「不登校とそのケア」を考える①

引用・参考文献 : ① 桜井智恵子 著(2021)教育は社会をどう変えたのかー個人化をもたらすリベラリズムの暴力.明石書店.②広瀬義徳・桜井啓太 編(2020)自立へ追い立てられる社会.インパクト出版会.③箱田徹 著(2013)フーコーの闘争ー<統治する主体>の誕生.慶應義塾大学出版会.④國部克彦 著(2022)ワクチンの境界ー権力と倫理の力学.アメージング出版.⑤渡辺位 著(1992)不登校のこころー児童精神科医40年を生きて.教育史料出版会.⑥奥地圭子 著(2005)不登校という生き方ー教育の多様化と子どもの権利.NHK出版.⑦親子支援ネットワーク あんだんて 著(2013)不登校でも子は育つー母親たちの10年の証明.学びリンク.⑧ピーター・バーガー+トーマス・ルックマン 著(2003)現実の社会的構成ー知識社会学論考.新曜社.

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