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「ひきこもりとそのケア」を考える②

D-2.「ひきこもりとそのケア」を考える②

ご質問&インデックス

  • Q
    ひきこもり当事者の心理について聞かせてください。

応答(室長からのメッセージ)

Q. ひきこもり当事者の心理について聞かせてください。

 まず、ひきこもり当事者本の分析をした森崎の研究を紹介したいと思います。比較した当事者本は以下の3冊です。

①「ひきこもりカレンダー」(勝山実2001

②「ひきこもりセキラララ」(諸星ノア2003

③「『ひきこもり』だった僕から」(上山和樹2001

 最初に、働くことに対する恐怖と悪循環について各当事者は次のように語っています。

 「まず就職が恐かった。召集令状がきて、自分の意に反して戦場にかり出されるような巨大な恐怖であった。」(諸星)、「『働くぐらいだったら、死んだほうがマシ』という考えでしかなかった。それぐらいに、『働くこと』は恐怖一色に染まっていた。『死ぬ』よりも、『働く』ことのほうがこわいのです。」(上山)、「働くことに恐怖していました」(勝山)と。これらの言葉に森崎は、多くの人が「日常」だと考える社会生活が、「ひきこもり」者にとっては、正反対の恐怖と理不尽さに満ちた「非日常」の世界に移っていると分析しています。加えて、その分析の背景として、身近に社会参加している大人である親が楽しそうに見えず、外の世界へ出ることの拒否感につながっていたことも記されています。

 そして、「働いていない」ことを負い目に感じ、ますます外に出られなくなるという悪循環について当事者本では繰り返されていることを強調します。「頭の中に親や友人たちがとっかえひっかえ出てきて『なぜ働かないのだ!』と責め立てる姿が浮かぶのである。」(諸星)、「無職である。ひきこもりであるということで人に会いづらくなる。かといって仕事へ向かうには、一人では怖いし心細い(いい歳をして自分で言ってて情けなくなるが)。ますます働けない。そして人にも会えなくなる。悪循環。恐怖だけが雪だるま式にふくらんでいく。今日も私は焦りと、もう手遅れという気持ちを部屋の中で一人かかえて過ごしている。」(諸星)、「世間に出なければ、社会に出なければと思い、アルバイト雑誌を毎週買うのですが、怖くて中を読むこともできないのです。」(勝山)、「人間が怖いんです。働かなければという強迫観念に毎日悩まされる。」(勝山)など、悪循環の心境が吐露されています。

 こうして、「ひきこもり」は、そのきっかけとなる背景は一人ひとり違っていても、一旦ひきこもると、「抜け出そうとして焦れば焦るほどはまりこんでしまう」という特徴を帯びだします。

 また、「ひきこもり」の渦中における必死のもがきの心境を次のように語っています。

 「だいたい世間も医者もひきこもりを社会不適合者として治そう治そうとする。治すのは本当にオレ達の脳みそなのか。(中略)ボクにはわからない、なんでこの世間を肯定するのか、そしてそれをボクらに押し付けるのか。間違っているじゃないか。大人達だって、毎日辛そうじゃないか。全然楽しそうじゃないし、幸せそうじゃない。みんな気づいているはずさ。」(勝山)、「(支援者に対して)自分のこころの中に良いことをしてやっているというおごりがないか?ひきこもり者に対して、優越感を持っていないだろうか?何度も胸に問うてほしい。」(諸星)など、ここには社会参加している人間が今ある社会の肯定を前提として、「ひきこもり」者を社会適応させようとする姿勢に、当事者は強い違和感を持っていることが読み取れましょう。続けて、「<現在>において、『怒り』と『恐怖』が表裏一体となって身動きできないまま硬直している……それが『ひきこもり』だと思います。」(上山)と。ここでの「恐怖」とは、働くことへの恐怖であり、社会全体への恐怖と考えられましょう。同時に、ここでの「怒り」とは、世間の価値観に縛られているがゆえに出ていけない悪循環に陥っている自分自身への怒りであるとの理解が必要でしょう。

 さらに、「絵でも描いていないと、将来への焦りやさまざまな不安・心配事が襲ってきて、頭がおかしくなりそうになる。なにより絵を描くことは自分のアイデンティティーでもあるので、それをしていないと自分が自分でなくなる気がするので、強迫的にやっている面も強い。」(諸星)と。ここには、物理的には社会と断絶しているように見えるが、内的には世間の価値観と一体化している故の「社会参加できない負い目による悪循環に苦しんでいる姿」が浮かび上がっているように思います。

 最後に、ひきこもった状態からの変化の契機について、次のように語っています。

「……ある晴れた日に弟にドライブに誘われた時のこと、車窓に広がる青空を見ていたら、『運転できたら気分がいいだろうな』と感じた。そこで自発的に教習所に通うようになった。」(諸星)、「私自身は、ひきこもりとは直接関係もない友人たちとの出会いによって家を出ました。これは要するに、『求めてもらえた』からなんです。つまり、『上山を助けてやる』ではなくて、『来てほしい』。あるいは『出会えて良かった』。つまり、一方的に見下されてできた治療関係ではなくて、私の中にある才能なり感性なりを評価してもらえて、向こうが私との出会いを喜んでくれた。」(上山)と。

 以上、森崎の研究の一部を抜粋する形で、「ひきこもり」者の心理について紹介しました。

 

 当相談室では、こうした心理背景を踏まえ、「伴走型ソーシャルサポート」によるケアを土台とした、ひきこもり当事者とそのご家族との信頼関係を協働(伴走)し育みます。ここでのケアとは、「弱さ、脆(もろ)さ」こそ大切にした「つながり」であり「生き方」のことです。なぜなら、人とは、そもそも「弱い」ものであり、「脆(もろ)い」ものであるからです。

 「弱いまま」「脆(もろ)いまま」、いや、「弱さ」「脆(もろ)さ」を大切にいたわり生きていけること、当相談室のカウンセリングと伴走型ソーシャルサポートの底流を成す理念です。

「ひきこもりとそのケア」を考える②

引用・参考文献 : ①森崎志麻(2012) 関係の病としての「ひきこもり」:ひきこもり当事者本の分析を通して.京都大学大学院教育学研究科紀要. ②保坂渉(2020)ひきこもりのライフストーリー.彩流社.

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